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151
現代の方言による翻訳例には、山浦玄嗣による『ケセン語訳新約聖書』(福音書のみの4分冊。イー・ピックス出版、2002年-2003年)がある。これは岩手県の気仙方言によるもので、NHKのこころの時代でとりあげられたことで地元の小さな出版社から出た本としては大反響を呼んだという。山浦は当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に手紙を送り、後に直々に献上する機会を得た。さらに山浦は『ガリラヤのイェシュー日本語訳新約聖書四福音書』(イー・ピックス出版、2011年)にて、ガリラヤ、エルサレム、ローマなどの出身や立場に応じてケセン語以外に京言葉、大阪弁、津軽弁などを使い分けた翻訳を試みている。これは著者の自宅や版元が東日本大震災で被災した直後に刊行されたものであり、2012年の「キリスト教本屋大賞」を受賞した。山浦の方言訳については「単なる翻訳の領域を超えた新しい文化的価値を持つもの」として評価する声がある。その一方、ケセン語訳のもつ独特の味わい深さを評価しつつも、山浦の観点に基づいたイエス像を押し付けている可能性を指摘する声もある。 方言による翻訳の例には、他にも大阪弁に翻訳された『コテコテ大阪弁訳「聖書」』(ナニワ太郎&大阪弁訳聖書推進委員会、データハウス、2000年)もある。これは「マタイはんの福音書」のみを新共同訳聖書を参考にして大阪弁に「翻訳」したものである(ただし、第1章の系譜など一部省略)。この翻訳について、関西学院大学宗教主事の前川裕は好意的に言及している。また、日本聖書協会翻訳部の島先克臣も、こうしたケセン語訳や大阪弁訳について興味深い翻訳の例として言及している。
日本語訳聖書
152
島先克臣
日本語訳聖書
154
東アジア人男性はミソジニーで女性に対し無神経、無礼というステレオタイプもある。 東アジア人男性は白人男性より男女同権であるという研究結果も出ているが、東アジア人男性は西洋のメディアでは男性優越主義者として描かれることが多い。 これはマイケル・クライトン著『ライジング・サン』、映画『ウルヴァリン:SAMURAI』でも描かれている。 エイミ・タン著『ジョイ・ラック・クラブ』は批評家の称賛を受けている一方、アジア人男性の差別的ステレオタイプが永続するとしてフランク・チンなどアジア系アメリカ人から批判されている。 近年東アジア人男性の描かれ方は伝統的ステレオタイプから変化してきている。 テレビ番組『LOST』では国際色豊かになり、テレビでの東アジア人の描かれ方が多次元的、複合的になっていくことを推し進めている。
アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ
155
マイケル・クライトン
アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ
157
鉱毒水問題と並んで地域住民と赤沢鉱業合資会社との対立を招いたのが宮田川上流の立木伐採問題であった。 宮田川上流の立木については早くも明治初年の副田欣一の経営下で鉱山の規模拡大と銅精練などのための薪炭用として伐採を申請したが、水源地の森林を保全する必要があるとして申請を却下された経緯があった。 1903年(明治36年)12月、赤沢鉱業合資会社は宮田川上流部森林の事業権を取得し、立木の伐採を開始した。 赤沢銅山によって水源地の森林が伐採されていることを知った地域住民は、鉱毒水問題とともに立木伐採反対運動を起こすことになった。
日立鉱山の鉱害問題
158
立木伐採問題
日立鉱山の鉱害問題
160
1837年に即位したヴィクトリア女王からも政界の長老として厚い信頼を寄せられたが、彼女にとっては現役首相メルバーン子爵が最も信頼できる相談役であったので、彼女のもとではグレイ伯爵が相談に与る事は少なかった。
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
161
1837年
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
163
1580年(天正8年)、三木城・英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。 秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。 あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。 この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。 同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。 この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。 1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した。
姫路城
164
山陽道
姫路城
166
さて、明治訳を評価する声もあったとはいえ、完成直後から改訳の声が上がっていた。これは、明治訳が外国人宣教師たちの委員会による訳であり、不自然な日本語がまだまだ多かったこと、誤訳が散見されたこと、そして底本であった欽定訳も1885年に改訳され、改訂版聖書が公刊されたことなどによる。その結果、様々な立場から改訳が試みられ始めた。そんな中、1906年に福音同盟会が教会同盟に改組されるのに合わせて、改訳のために委員が選出された。前出の外国人宣教師を中心とする聖書常置委員会や3聖書会社からもこれに協力していく意向が示されたが、教会同盟の正式発足が先送りされたことに対応し、結局は常置委員会が主導する改訳委員会が1910年に成立した。とはいえ、その委員はグリーン、ダンロップら外国人宣教師4人と松山高吉、別所梅之助、川添万寿得、藤井寅一の日本人4人となっており、最初から日本人が正規委員として関与した点で明治訳とは異なっている。新約聖書の底本としてはネストレ版のギリシャ語校訂版とされたが、当初は入手できておらず、暫定的にウェストコット・ホート版で代用された。また、その翻訳に際し、問題箇所の読みはRVを参照することに決められており、ほかにシェルシェウスキーの漢訳、前出のN・ブラウン訳、日本正教会訳、ラゲ訳なども参考文献とされた。この改訳作業では、まず試訳として『マコ伝福音書』が刊行された。この試訳に対しては「マコ」を「マルコ」とすべきことなども含め、色々な意見が寄せられた。委員会はそれらの意見も参照して、1917年に新約聖書全体の改訳を完成させ、『改訳新約聖書』として出版した。これは「改訳」、「大正訳」、「大正改訳」などと呼ばれる。 明治元訳に比べて学問的な正確さが向上したことはもちろんだが、漢文調から和文を主とする文章に改められ、漢語に無理なルビを振ることは避けられ、日本語として読みやすくなったことが評価されている。また、それまで一定していなかったキリスト教用語もこの訳で安定したとされており、教会外の人にも多く読まれた結果、「狭き門より入れ」のように日本語のことわざ同然に使われている文章も改訳の中には数多くある。成句が使用される頻度についてはその後の改訳聖書も及ばないとされており、「日本の文学作品として十分に古典の位置を占めている」とも評されている。
日本語訳聖書
167
「大正改訳」
日本語訳聖書
169
小惑星上をホップしながら移動するミネルバの心臓部ともいえる小型モーターも悩みの種であった。既製の宇宙用のモーターは大きさやコスト面からミネルバに使用できなかった。そこで地上用の民生品を利用する方針となり、複数のメーカーにミネルバ搭載のモーター製作を打診してみたが良い返事は得られなかった。結局スイスの精密機械メーカーのマクソンモーターが協力をすることになった。しかしマクソンモーターはNASAの火星探査機マーズ・パスファインダーに搭載されたローバー、ソジャーナ用のモーターを提供したことがあったが、ソジャーナで要求された温度条件よりもミネルバのそれは高温での動作を要求される厳しいものであった。結局小惑星上で60時間動作するという耐久試験にマクソンモーターのモーターは合格し、ミネルバに使用されることが決まった。ミネルバには小惑星表面を撮像するカメラの搭載を行う予定であった。まずミネルバにも探査機MUSES-C本体が搭載するカメラを利用しようと考えたが、コスト高である上に、カメラ自体もミネルバと同じくらいの重量があるため断念せざるを得なかった。そこで技術者たちは様々なカメラを調べていったが、ミネルバに搭載可能である重量10グラム以下、取り付け高さ15ミリというカメラはなかなか見つからなかった。しかし1998年になってソニーのノートパソコン、VAIOシリーズのPCG-C1に目をつけた。PCG-C1には回転式のCCDカメラが内蔵されており、このカメラならばミネルバに搭載できそうであった。話を持ちかけられたソニー側は協力を了承したが、ミネルバに搭載されたカメラが宇宙空間で不具合を起こしても対応できないことと、カメラ本体の詳細な技術情報の開示は行わないことが条件となった。
ミネルバ_(ローバー)
170
ソニー
ミネルバ_(ローバー)
172
オグリキャップ(OguriCap、1985年3月27日-2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬である。 1987年5月に岐阜県の地方競馬・笠松競馬場でデビュー。 8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。 中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。 1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。 1991年、JRA顕彰馬に選出。 愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など多数。 競走馬引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。 種牡馬引退後は優駿スタリオンステーションで功労馬として繋養されていたが、2010年7月3日に右後肢脛骨を骨折し、安楽死の処置が執られた。
オグリキャップ
173
オグリキャップ
オグリキャップ
175
日立鉱山からの鉱毒水は宮田川河口付近の海の汚染を発生させ、漁業に被害を与えた。 日立沿岸では20世紀初頭にはカツオ、アワビなどの漁業が盛んに行われていたが、日立鉱山の発展に伴い1910年頃から鉱毒水によって磯焼けが発生し、アワビの不漁が続くようになった。 漁業関係者は日立鉱山と茨城県に調査を要請し、1914年(大正3年)には日立鉱山側と漁業組合との間に補償交渉が妥結した。 その後も戦後まで日立鉱山側から地元漁業関係者への補償は継続された。
日立鉱山の鉱害問題
176
1910年頃
日立鉱山の鉱害問題
178
51歳の時になってようやく遺産相続問題が解決し、一茶は故郷柏原に定住することになる。 俳諧師として全国的に名が知られるようになった一茶は、北信濃に多くの門人を抱えた俳諧師匠となり、父の遺産も相続して待望の生活の安定を得ることが出来た。 52歳にして結婚を果たしたが、初婚の妻との間の4人の子どもは全て夭折し、妻にも先立たれた。 再婚相手との結婚生活は早々に破綻し、身体的には中風の発作を繰り返し、64歳の時に3度目の結婚をするものの、65歳で亡くなる数カ月前には火事で自宅を焼失するなど、後半生も不幸続きの人生であった。 また一茶は弟との遺産相続問題などが尾を引いて、故郷柏原では必ずしも受け入れられず、一茶自身も故郷に対して被害意識を最後まで持ち続けた。
小林一茶
179
4人
小林一茶
181
1560年12月、フランソワ2世が死去し、弟のシャルル9世が即位した。王太后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。経験不足とヴァロワ・ハプスブルク戦争の借財のため、カトリーヌは強力な私軍を有する貴族たちの激しく対立した利害関係を慎重に舵取りをせねばならないと感じた。彼女は敬虔なカトリックであったが、強大なギーズ家を牽制するために、ユグノーの盟主であるブルボン家を優遇してナバラ王アントワーヌを国王総代官(Lelieutenant-général)となし、コンデ公ルイに特赦を与えた。また、彼女は協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用した。ロピタルは市民の平和のための幾つかの手段を提案し、神聖会議による宗教的解決を主張していた。
ユグノー戦争
182
ブルボン家
ユグノー戦争
184
1867年後半には極度の疲労で健康を害している。弟エドワードも結核にかかり、同様に寝たきりとなった。アレックは翌年には回復し、イングランドのバースにあるサマーセット大学で講師を務めたが、弟の病状は悪化した。結局エドワードはそのまま亡くなり、アレックはロンドンに戻っている。
アレクサンダー・グラハム・ベル
185
エドワード
アレクサンダー・グラハム・ベル
187
列車の速度も粘着係数に影響を与える。レールが十分乾燥した状態では速度との関係はあまりないが、レールが湿潤状態になると速度が上がるにつれて粘着係数が低下する。接触面に入り込んだ水が膜状になり、この水膜が速度の0.6乗におおむね比例して厚くなることから、高速ではより大きく輪重を負担するようになるためである。水の他に、湿度、レール上の落ち葉、ほこり、油類、踏切において自動車が持ち込む泥などが粘着に影響を与える。粘着係数が高くなる場合としては、熱処理レールを使用した場所で酸化鉄(III)がレール表面に形成されていると0.7に達することもある。これは、1tの輪重に対して700kgの粘着力が得られるということである。ただしこれは例外的な高い値であり、かえってレールの波状磨耗やきしり音などの問題を引き起こすことがある。通常のレールと車輪の状態では乾燥した箇所で0.25-0.30、濡れた状態では0.18-0.22、油が付着した状態では0.15-0.18、みぞれや雪が付着した状態では0.10-0.15である。また、ゴムタイヤコンクリート軌道式の新交通システムでは、状態がよければ1.0を超え、通常でも0.50-0.60程度あり鉄輪鉄軌条式に比べて粘着が優れているが、降雨・降雪時に大きく粘着が低下する傾向があり、粘着係数の天候に対する安定性の観点では鉄輪鉄軌条式の方が優れている。
粘着式鉄道
188
湿潤状態
粘着式鉄道
190
連合国および南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が1943年4月26日に発令したカートホイール作戦の計画では、強力な日本軍が構えるラバウルを攻略せず避けることがすでに決まっていた。第3艦隊は、ラバウル包囲のためにブーゲンビル島を攻略することまでは決めていた。攻略地点については、ニュージョージア島の戦いにおけるニュージョージア島ムンダ攻防戦の苦い経験から日本軍が集中しているであろうブーゲンビル島ブイン地区とショートランド諸島をパスし、エンプレス・オーガスタ湾に面したタロキナ地区に飛行場適地があったこと、タロキナ方面の日本軍部隊がわずかであるなどの理由により、9月22日にタロキナ地区への上陸に決した。その時点での第3艦隊の兵力といえば、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵中将率いる二個師団とニュージーランド軍一個旅団合わせて約34,000名の陸上部隊に、輸送船12隻と、その護衛にあたる駆逐艦11隻、アーロン・S・メリル少将の第39任務部隊、そして「サラトガ」だけであった。タロキナ地区への上陸作戦を決定した後、ハルゼー大将は真珠湾の太平洋艦隊司令部に向かい、増援を要請する。その結果、新鋭の軽空母プリンストン(USSPrinceton,CVL-23)と巡洋艦群、駆逐群が派遣される事となった。第38任務群は以下の艦艇で構成されることとなった。
ラバウル空襲
191
9月22日
ラバウル空襲
193
有人飛行は、すべて船長・司令船操縦士・月着陸船操縦士の三名によって行われた。月面着陸をする際には、船長と着陸船操縦士のみが降下し、司令船操縦士はその間月周回軌道上で待機していた。 アポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月11日に発射されたアポロ7号であった。計画の目的は、アポロ1号の死亡火災事故を受けて全面的に再設計された司令船を、地球周回軌道上で11日間にわたって試験することであった。サターンIBロケットが人を乗せて打ち上げられるのも、またアメリカの宇宙開発において三人の飛行士が同時に宇宙に行くのも、この飛行が初めてであった。
アポロ計画
194
司令船操縦士
アポロ計画
196
1938年3月、松竹本社の機構改革が行われて新たに「歌劇部」が発足し、東京・大阪の両少女歌劇が一元管理されることになった。歌劇部長の大谷博は両劇団を積極的に交流させたが、時局の戦時色が強まったこともあり本格公演は少なくなっていき、少女歌劇人気は低落傾向を示していった。作品も時局が反映されたものが作られはじめ、日支事変を題材とした『ますらを』が上演されたのち、翌1938年の『東京踊り』には「さくらかちどき」という副題が付けられ、「祖国のために」というバレエも併演された。1939年には『防共の誓い』を上演した。そして同年9月の『ぶるう・むうん』をもって少女歌劇の単独公演はいったん休止されることになる。 以後はかつてのごとく映画上映に併演されるアトラクションを建前として公演を続けたが、1941年末に太平洋戦争が勃発すると、上演内容についての制限も強化されていった。翌1942年にはフィリピン方面の将兵慰問興行を3カ月にわたり行った。同年にはオリエ津阪、1943年には水の江瀧子と、全盛期を支えた男役スターが相次いで退団した。1944年3月には決戦非常措置要項により国際劇場が閉鎖され、風船爆弾の製造工場として転用された。ここまでに退団者も相次いでいたことから、同31日をもって松竹少女歌劇団はいったん解散。慰問興行を目的とした「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外で慰問興行を打った。1945年には「松竹舞踊隊」として活動、8月に大船新生劇団と邦楽座で興行中に終戦を迎えた。
松竹歌劇団
197
オリエ津阪
松竹歌劇団
199
1282年より元はベトナム南中部のチャンパ王国への遠征を行っており、海路からのチャンパ侵攻に失敗した元軍は大越の領土を通過して陸路よりチャンパを攻撃しようとしていた。平灘(ビンタン、現在のハイズオン省チーリン)で開かれた会議で王侯、官吏らは領土を通過しようとする元軍への対策を話し合い、陳柳の子である興道王・陳国峻(チャン・クォック・トアン、「陳興道」の名でも知られる)が対モンゴル戦の総指揮官に選ばれる。クビライの皇子トガン率いる元軍が通過の途上で食料の供給を要求すると、以前から元軍の過大な徴発に不満を抱いていた仁宗はトガンの要求をなかなか実行に移そうとはしなかった。1285年初頭に各地の長老たちを招集しての延洪会議が開かれ、元軍に対して軍事行動を起こすことで全員の意見が一致した。かくして敵意を抱く大越を服従させるためにトガンは大越を攻撃の標的とし、1285年1月より元軍の大越攻撃が開始される。
陳朝
200
トガン
陳朝
202
ROSは大学・研究機関といった学術分野をはじめ、産業界や趣味分野まで幅広く利用されている。ROSの利用は、移動ロボットやロボットアームをはじめ、ヒューマノイド、自動運転車や無人航空機、自律型無人潜水機にも広がっている。ROSの利用を公表しているロボットは、ROSの公式サイトで紹介されている。その他、企業・研究所・大学・個人などが非公開でROSを利用した多くのロボットを開発している。 2015年に実施されたロボット競技大会であるDARPAロボティクス・チャレンジでは、出場した23チームのうち18チームがROSを利用した。公園や遊歩道といった屋外で1キロメートル以上にわたり移動ロボットに自律走行させる「つくばチャレンジ」では、2017年の大会に参加したチームの3分の2以上がROSを利用した。また、ロボカップの一部門であり、家庭環境での課題達成を競う「ロボカップ@ホーム」では、2016年大会において出場24チームのうち23チームがROSを利用した。そのほかには、アメリカ航空宇宙局(NASA)が開発し国際宇宙ステーションで稼働したRobonaut2にもROSが利用されている。 ロボットメーカが開発したロボットでROSに対応しているものは、メーカのコントローラにROSから通信できるインタフェースが用意されていることが多い。2018年現在においては、サーボ機構の制御といったロボットの安全性や信頼性に直結する部分についてはロボットメーカが提供するコントローラを用いることが一般的である。
RobotOperatingSystem
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23チーム
RobotOperatingSystem
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第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(英語:CharlesGrey,2ndEarlGrey,KG,PC、1764年3月13日-1845年7月17日)は、イギリスの政治家、貴族である。
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
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貴族
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
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続いて赤沢から峠を越えた場所にある入四間村で、1879年(明治12年)から銅の採掘が開始された。 しかし経営は上手くいかず大幅な赤字を計上する状態であり、まもなく休山になったものと考えられる。 1882年(明治15年)には副田欣一から長山万之助が赤沢銅山の経営権の譲渡を受ける。 しかし長山は鉱山の経営に乗り出すことなく1884年(明治17年)、荒井常蔵に経営権を売却する。 荒井もまた鉱山経営を行わずして1886年(明治19年)に経営権を中山芳兵衛に譲渡したが、中山芳兵衛も鉱業権を所持するのみで鉱山経営は行わなかった。 1892年(明治25年)になると、平野良三が中山が持つ鉱区の隣に新たな鉱区を申請し、許可を得た。 平野は実際に鉱山の経営を行う意欲を見せ、地元の日立村との間に銅山経営に関する取り決めを結んだ。 しかし平野もやはり鉱山経営に乗り出すことが出来ず、結局1894年(明治27年)に、中山芳兵衛が持つ鉱区と平野良三が持つ鉱区は、ともに高橋元永と城野琢磨の両名が入手することになった。
日立鉱山
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中山芳兵衛
日立鉱山
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酵素(こうそ、英:enzyme)とは、生体で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子である。 酵素によって触媒される反応を“酵素的”反応という。 このことについて酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域が、酵素学(こうそがく、英:enzymology)である。 酵素は生物が物質を消化する段階から吸収・分布・代謝・排泄に至るまでのあらゆる過程(ADME)に関与しており、生体が物質を変化させて利用するのに欠かせない。 したがって、酵素は生化学研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。 多くの酵素は生体内で作り出されるタンパク質を基にして構成されている。 したがって、生体内での生成や分布の特性、熱やpHによって変性して活性を失う(失活)といった特性などは、他のタンパク質と同様である。
酵素
212
enzyme
酵素
214
川端の家系は北条泰時から700年続き、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)。 道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった。 川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる。 祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母と姪の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった。 父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる。
川端康成
215
北条泰時
川端康成
217
基幹産業は水産業である。 農業も行われ、戦前までは主として自給用であったが、戦後は米・タマネギ・サツマイモなどを町外に販売できるまでに規模を拡大した。 水産業は国崎町の重要な産業であり、1980年代初頭には93%が漁業に従事していたが、専業漁家はなかったという。 1960年(昭和35年)には専業漁家が14世帯存在し、町内総生産の74%を漁業が占めた。 農業生産上優位にある家庭では漁業生産上も優位にある傾向が見られ、国崎では農業と漁業が不可分であることを示す。 男性は刺網などの沿岸漁業、女性は海女漁業に従事する。 また近隣の集落では見られない男性の海士も存在する。 三重県教育委員会による調査では、2010年(平成22年)現在、女性の海女が62名、男性の海士が5名であった。 1937年(昭和12年)には男性の海士だけで50名いた。
国崎町
218
女性の海女
国崎町
220
1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。 これを基に工事実施計画の指示が行われた。 設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした。
北越急行ほくほく線
221
優等線
北越急行ほくほく線
223
キリスト教は、1549年に日本へ伝えられた。フランシスコ・ザビエルの日本布教のきっかけとなったヤジロウの書簡から、ヤジロウがマタイによる福音書を翻訳した可能性はあるものの、実物は残っていない。1563年頃までには、イエズス会士のフアン・フェルナンデスが、『新約聖書』のうちの四福音書を翻訳していたらしいが、平戸の北部にある度島での火災で原稿が焼失してしまった。その後、『日本史』などの著作で知られるルイス・フロイスが、典礼用に四福音書の3分の1ほどを訳すなど作業を続け、1613年頃までにはイエズス会が京都で『新約聖書』全体を出版したらしいことも確認されている。しかし、このイエズス会訳新約聖書は現存しない。日本語訳聖書の現存する最古の断片は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが編纂した『日本のカテキズモ』の訳稿に近い和文で、ポルトガルのエヴォラ図書館の古屏風の下張りから発見された。1580年前後と推測される最古の断片には、旧約聖書のコヘレトの言葉、イザヤ書、シラ書の断片が含まれる。他にも、福音書の受難物語部分をまとめた『御主ゼスキリシト御パッションの事』はフェルナンデスの訳稿焼失の前後にその写本が各地の教会で読まれていたらしいことが窺われる。これは1591年にバレトがまとめた、いわゆる「バレト写本」や、1607年に長崎で刊行されたローマ字本『スピリツアル修行』の中にも見出すことが出来る。これら二書に収められた『御主ゼスキリシト御パッションの事』はほぼ同一であり、フェルナンデス訳とは別に某イエズス会士によって訳されたらしいが、名前は伝わっていない。以下、『スピリツアル修行』から、『御主ゼスキリシト御パッションの事』を一部引用する。
日本語訳聖書
224
火災
日本語訳聖書
226
当初の戦局を優位に進めた反乱軍であったが、反チェーザレを標榜した反乱軍内部の意思疎通は欠けていた。 ヴィテロッツォやオルシーニ党がチェーザレ軍に属した時期にフィレンツェを攻撃した件をフランス王から弁明を求められたにも拘らずこれを黙殺したことから、フランスはチェーザレ側へと組した。 また、その他の周辺の諸国(フィレンツェ等)からもチェーザレが暗黙の支持を取り付けたことや軍事面での増強を進めたことに加えて、教皇軍最高司令官としてアレクサンデル6世の威光をバックとしていることもあって、反乱軍の一部は独自でチェーザレとの和睦交渉を行った。 まとまった和睦内容を巡って、ヴィテロッツォらとパオロ・オルシーニらが激しく対立し、オルシーニ一族らが個別にチェーザレとの和睦に調印するなど、結束は崩れた。 グイドバルドは再びウルビーノから亡命せざるを得なくなり、ジャンマリーノはチェーザレとの交渉によってカメリーノを退去することで合意した。 ボローニャはチェーザレと個別に傭兵契約を結んだことで、反乱軍から距離を置いた。 反乱から約1ヵ月後にマキャヴェッリがフィレンツェ政府に対して「チェーザレが勝利するに違いないと考えている」との内容の書簡を送っており、チェーザレ優位に事態は進みつつあった。
チェーザレ・ボルジア
227
マキャヴェッリ
チェーザレ・ボルジア
229
アレクサンドリアは、アメリカ合衆国ルイジアナ州中央部に位置する都市。州都バトンルージュの北西約170kmに位置する。州の地理重心の近くに位置し、市域はレッド川の南西岸に広がっている。人口は47,723人で州内第10位、人口の比較的希薄な州中央部では最大で、その中心となる都市である。都市圏はアレクサンドリアに郡庁を置くラピッズ郡、およびその北に隣接するグラント郡の2郡にまたがり、153,922人の人口を抱えている。 今日のアレクサンドリア市があるこの地は、1785年に、ペンシルベニア州出身の商人アレクサンダー・フルトンが、当時ルイジアナを統治していたスペインから付与された土地であった。その後フルトンは自分の店を通じて、この地に住みついていたネイティブ・アメリカンのチョクトー族、テンサス族、アパラチー族、およびパスカグーラ族から土地を購入した。やがてアメリカ合衆国によるルイジアナ買収後の1805年、フルトンはアレクサンドリアの町を創設し、区画した。このアレクサンドリアという名の由来については、フルトン自身に因んだとする説と、フルトンが幼くして亡くした娘の名に因んだとする説がある。
アレクサンドリア(ルイジアナ州)
230
47,723人
アレクサンドリア(ルイジアナ州)
232
スペンサー・コンプトンは1705年10月25日の庶民院議長選挙でホイッグ党候補のジョン・スミスに投票した後、11月7日の選挙委員会議長選挙でホイッグ党の候補として出馬、トーリー党の初代準男爵サー・ギルバート・ドルベンに勝利した。
スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵)
233
ジョン・スミス
スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵)
235
福建省の泰寧県の丹霞は、泰寧北部(Taining-NorthSection,1335-003)と泰寧南部(Taining-SouthSection,1335-004)に分けて登録されている。 前者は泰寧風景名勝区(TainingNationalPark)の北部と泰寧世界地質公園を含み、面積は5277haである。 後者は泰寧風景名勝区の南部と国家森林公園(NationalForestParkland)を含み、面積は5810haである。 674mから200mまでの地形で構成されており、高低差は474mである。
中国丹霞
236
5277ha
中国丹霞
238
第二次世界大戦後は新制中学校である谷田部町立谷田部中学校が1951年に開校、1964年に現在地へ移転した。 佐藤栄作政権が進めた筑波研究学園都市の建設によって、1970年以降は商工業が活性化し、道路整備や住宅・団地・工場の建設も進み、1975年に新しい谷田部町役場が完成した。 同年の商店数は92軒を数えた。 1973年には一部が稲敷郡茎崎村に編入され(現:池の台の一部)、1974年・1977年・1980年には一部が観音台へ、1974年・1977年に高野台へ、1978年に緑が丘へ分割された。 安定成長期の1984年には、郊外に常磐自動車道谷田部インターチェンジが開設され、谷田部陣屋跡を中心とする谷田部地区への道路アクセスも好転した。
谷田部(つくば市)
239
92軒
谷田部(つくば市)
241
オレゴン州会議事堂(オレゴンしゅうかいぎじどう、OregonStateCapitol)は、アメリカ合衆国オレゴン州の州都セーラムに立地する同州議会の議事堂である。庁舎はセーラムのダウンタウン、ウィラメット大学キャンパスの北東隣に建っている。議事堂内にはオレゴン州議会の上下両院の議場のみならず、州知事、州務長官、州財務官の各事務所も置かれている。現在の庁舎は1936年から1938年にかけて中央部分が建設され、1977年に左右両ウイングが増築されたもので、セーラム遷都以来3代目のものとなる。初代の庁舎は1855年に、2代目の庁舎は1935年に焼失した。庁舎の高さはドームを含めて51mである。議事堂の敷地内には芸術作品が展示され、噴水が設けられ、州の木であるベイマツや州の花であるセイヨウヒイラギナンテンをはじめとする様々な花木が植えられている。このアール・デコ調の庁舎はニューヨークの設計事務所、トローブリッジ・アンド・リビングストンがフランシス・キアリーと共に設計したものであった。庁舎には外観・内装とも、大部分に大理石が用いられている。この庁舎は1988年に国家歴史登録財に指定された。この庁舎の中央部分の建設には250万ドル(当時)の費用を要した。その一部は、世界恐慌後のニューディール政策の一環として創設された公共事業局(PublicWorksAdministration)が負担した。後のウイングの増設では1250万ドル(当時)の費用が投じられ、床面積がそれまでの約2倍、約21,720m2に広がった。
オレゴン州会議事堂
242
アメリカ合衆国
オレゴン州会議事堂
244
皇族や貴人の参詣道として利用された中辺路と異なり、小辺路は生活道としてはともかく参詣道としては近世以降に利用されるようになった道である。 また、同じ近世以降の熊野参詣道でも、文人墨客の道として利用された大辺路などと異なり、小辺路はもっぱら庶民の参詣道として用いられた。 こうした事情から小辺路の記録は潤沢とは言い難い。 源氏との戦いに敗れた平維盛が密かに逃亡の道としたとする言い伝えがあり、それにちなむ史跡があったほか、野迫川村の平という集落には維盛の落人伝説がある。 また元弘の乱(元弘元年〈1331年〉)に際して後醍醐天皇の王子護良親王が鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際に利用したとも伝えられる(「大塔宮熊野落ちの事」『太平記』巻第5)。 しかし、これらはあくまで伝承にとどまる。
小辺路
245
護良親王
小辺路
247
LED照明の使用中、電源回路からは電源コイルが発する磁力の影響により、ノイズが発生することが多い(回路によっては定電流ダイオード(CRD)を使用し、ノイズが発生しない構成を取るものもある)。そのため電源回路にはノイズが漏洩しないよう、フィルタ回路で適切な電磁両立性(EMC)対策を施すことが求められる。2012年7月より、日本国内においてはLED関連器具(LEDランプおよびLED電灯器具)が、電気用品安全法(PSE)の規制対象となり、製品安全試験に加え不要輻射(EMI測定)が必須要求となった。規制前は、主に格安製品を中心に、適切なEMC対策が施されていない物も少なくなかった。このような製品は、LED照明が点灯している間は常にノイズが発生するため、中にはテレビ・ラジオなど無線通信の受信に悪影響が出る場合もあり、街路灯の光源を全てLED電球に交換したところ、テレビへの混信が発生したため、不要輻射対策品への再交換を行った事例もある。
LED照明
248
電源コイルが発する磁力
LED照明
250
藤山は1911年(明治44年)4月8日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(後の東京都中央区日本橋蛎殻町)に、同区長谷川町(後の東京都中央区日本橋堀留町二丁目南部)のモスリン問屋・近江屋の三男(5人きょうだいの末っ子)として生まれた。 父の信三郎は近江屋の番頭で、母のゆうは店主の養女であった。 幼少期は、家業が順調であった上、母のゆうが株式投資の収益で日本橋区一帯に借家を建て多額の家賃収入を得ていたことから、経済的に大変恵まれた環境にあった。 また、幼少期から音楽家としての資質を育むのに適した環境の下で育った。 母のゆうは子供にピアノを習わせる教育方針を持っており、藤山も幼少期からピアノを習った。 さらに通っていた幼稚園が終わると親戚の作曲家・山田源一郎(藤山の姉・恒子の夫は山田の甥)が創立した日本女子音楽学校(後の日本音楽学校)に足繁く通い、賛美歌を歌ったりピアノの弾き方、楽譜の読み方を教わった。 また、家族に連れられて隅田川を往復する蒸気船に乗って浅草に遊びに行き、物売りの口上や下町の歯切れの良い発音を耳にした。 藤山曰く、後年発音の歯切れの良さが評価されたことには幼少期に浅草で経験したことの影響があった。
藤山一郎
251
山田源一郎
藤山一郎
253
ラバウル空襲(ラバウルくうしゅう)は、第二次世界大戦中にラバウルで日本軍と連合国軍との戦闘で行われた空襲である。1942年のラバウル攻略時に日本軍が実施した空襲をはじめ、1943年に連合国軍がブーゲンビル島の戦いの援護を目的として実施した大規模な空襲などがある。
ラバウル空襲
254
第二次世界大戦
ラバウル空襲
256
1870年、23歳のとき、ベルと兄の未亡人キャロラインと両親はネストリアン号という船でカナダに向かった。ケベック・シティーに到着すると列車でモントリオールに向かい、さらに一家の友人トーマス・ヘンダーソン牧師のいるオンタリオ州パリに滞在した。まもなく近くのブラントフォードに程近い10.5エーカー(4万2,000平米)の農場を購入。農場には、果樹、大きな屋敷、馬小屋、豚小屋、鶏小屋、車庫があり、エリー湖に注ぐグランド川に面していた。
アレクサンダー・グラハム・ベル
257
1870年
アレクサンダー・グラハム・ベル
259
オーストラリアでもっとも有名なワインはペンフォールズ社の「グランジ」である。偉大な1955年のヴィンテージは1962年以降にいくつものワインコンクールで50以上の金賞を獲得した。1978年にフランスで開催されたワイン・オリンピックでは、1971年のヴィンテージがシラー/シラーズ部門で第1位に輝いた。1990年のヴィンテージは1995年にワイン・スペクテーター誌によって年間最優秀赤ワインに選ばれ、1998年のヴィンテージは同誌の採点で100点満点中99点を獲得した。イギリス人ワイン評論家のヒュー・ジョンソンはグランジをボルドーワインの一級畑と比較して「南半球唯一の一級畑」と呼んだ。影響力のあるアメリカ人ワイン評論家のロバート・パーカーはボルドーの愛好家として知られているが、グランジを「世界でもっとも魅惑的で凝縮されたワインであるペトリュスにとって代わる存在である」と書いた。その他に国際的な注目を集める赤ワインには、グレイスのヘンチキ・ヒル、クレアンドン・ヒルズ・アストラリス、ダーレンベルグ・デッドアーム、トーブレック・ラン・リグなどがある。オーストラリアには約2,000のワイン生産者が存在し、その大部分は小規模なワイナリーを経営している。国内のワイン市場は少数の大手ワイン会社によって支配されており、生産量の90%が上位10社、輸出量の75%が上位3社、アコレード・ワインズ、トレジャリー・ワイン・エステーツ、カセラ・ワインズによるものである。2000年代には業界再編の動きがあり、ブランドワインの販売を行うオーストラリア最大のワイン会社は2001年から2003年がトレジャリー・ワイン・エステーツ、2004年と2005年がハーディ・ワイン・カンパニーであった。ハーディは世界最大のワイン会社であるコンステレーション・ブランズの一部であり、ハーディは2001年から2005年まで所有するブドウ畑面積とブドウ収穫量で国内最大だった。
オーストラリアワイン
260
ヒュー・ジョンソン
オーストラリアワイン
262
天皇賞(春)優勝後、陣営は宝塚記念への出走を決めた。 同レースには持病の深管骨瘤で天皇賞(春)に出走しなかったトウショウボーイも出走を決めていた。 トウショウボーイは前年の有馬記念以来5か月のブランクがあり調教の動きが思わしくなく、厩務員が「気合いが全然足りない」とコメントしていたことから人気を落とし、テンポイントが1番人気に支持された。 しかしレースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走したものの最後まで交わすことができず、2着に敗れた。 トウショウボーイに騎乗した武邦彦は、「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたと、鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」、「ぼくのミスです」とそれぞれこのレースを振り返っている。 この敗戦により「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」という声が上がるようになった。
テンポイント
263
テンポイント
テンポイント
265
石材と500万個のレンガを使用して造られたこの庁舎は幅84m、奥行き41m、高さ55m(ドームを含む)であった。地下1階には州南西部のアムクワ川流域で産出された砂岩が用いられた。内部には高さ16.5mの正方形のロタンダを有し、上下両院の本会議場が置かれていた。2階にはオレゴン州最高裁判所、オレゴン州法図書館、下院本会議場の傍聴席が設けられていた。外観には装飾として付柱が設置され、東西両端に2階層分の高さのポルチコが立てられていた。庁舎内には昼食を出すカウンター席も用意されていた。加えて、この庁舎は方立のついた窓が設けられたウイングを有していた。銅で覆われた大きなドームは鉄や鋼のフレームを用いた構造になっていた。ドームはこの庁舎の他の部分よりも16.5m高い位置に設置され、ドーム自体の高さは30.5mあった。このルネサンス様式の庁舎は連邦議会議事堂を真似て造られ、正面入口にはコリント式の柱が立てられていた。当時、議事堂は西向きに、ウィラメット川に向かうように造られた。州政府はドームが完成する前、1876年8月にこの議事堂を使用し始めた。当初の計画では、ドームの両側に塔が建てられる予定であったが、建設費用を抑えるためにそれらの塔の建設は見送られた。この2代目の庁舎は1935年まで使用された。
オレゴン州会議事堂
266
オレゴン州会議事堂
268
1500年8月、チェーザレは内紛状態にあったチェゼーナを、軍を動かすことなく手に入れた。 更にアレクサンデル6世によりマラテスタ家(Malatesta,リミニ)、マンフレディ家(ファエンツァ)、スフォルツァ家(ペーザロ)を破門・宣戦布告したことを受けて、チェーザレはイーモラ攻撃時と同様にフランスの応援部隊及び傭兵から成る12,000の兵を率いて、リミニへ向けて進軍した。 10月、リミニを支配していたパンドルフォ4世マラテスタがチェーザレ到着を前にチェーザレに降伏を申し出て国外へ退去し、チェーザレはリミニへの無血入城を果たした。 続いてペーザロへ進軍したが、ペーザロを支配していたジョヴァンニ・スフォルツァもチェーザレ到着前に遁走しており、やはり無血入城を果たした。 更にファーノへ向かって進軍しこれを降伏させた。
チェーザレ・ボルジア
269
ペーザロ
チェーザレ・ボルジア
271
コソボ紛争は、ユーゴスラビア内戦の過程で、バルカン半島南部のコソボで発生した2つの武力衝突を示す。1998年2月から1999年3月にかけて行われたユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人の武装組織コソボ解放軍との戦闘がその一つで、もう一つは、1999年3月24日から6月10日にかけて行われた北大西洋条約機構(NATO)によるアライド・フォース作戦である。この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった。
コソボ紛争
272
ユーゴスラビア内戦
コソボ紛争
274
十腕類の名の通り、コウイカの腕は10本あるが、うち2本(1対)は触腕と呼ばれ、ポケットの中に完全に収納することができる。 触腕は他の腕とは違って吸盤は先端の触腕掌部(tentacleclub)にしかなく、伸び縮みさせることができる。 残りの腕を、甲のある背側の中心の1対から順に、第1腕(I)、第2腕(II)、第3腕(III)、そして腹側の1対を第4腕(IV)と呼ぶ。
コウイカ
275
触腕
コウイカ
277
田原市図書館(たはらしとしょかん)は、愛知県田原市の公共図書館。 渥美郡田原町は2003年に渥美郡赤羽根町を編入して市制施行し、2005年には渥美郡渥美町を編入している。 合併前の自治体はそれぞれ図書館を設置しており、合併により田原市の設置する図書館となった。 田原市図書館は、旧田原町域にある中央図書館、旧赤羽根町域にある赤羽根図書館(分館)、旧渥美町域にある渥美図書館(分館)の3館からなり、移動図書館車2台を保有している。
田原市図書館
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3館
田原市図書館
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1943年春にガダルカナル島の戦いに敗れて以降、前線が伸び切った日本軍のソロモン方面での防衛線は徐々にラバウル側へと押し上げられていく。開戦以降の敗退に次ぐ敗退から体勢を立て直した連合国軍との航空戦力の差も数と質の両方の面で広がり、数の方は1943年4月の「い号作戦」に代表されるような母艦航空隊の投入が幾度か行われたが、損害が増すばかりであった。やがてニュージョージア島、コロンバンガラ島、ベララベラ島からの撤退で防衛線はさらに押し上げられ、9月下旬からはブインなどへの空襲が激化し、同方面の零戦隊もラバウルに後退する外なかった。
ラバウル空襲
281
連合国軍
ラバウル空襲
283
新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。 薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた。 大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる。 このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。 一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。 また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。
江戸開城
284
西郷隆盛
江戸開城
286
1919年(大正8年)に自動車取締令と道路法が制定されているが、この中で道路通行者は標示に従うよう定められている。 1920年(大正9年)頃から、警視庁管内では白線2本による「電車線路横断線」が設置されている。 材料は石灰水で、1930年(昭和5年)までこの材料が用いられていたとされる。 1926年(大正15年)頃には石材やアルミニウム板が材料として用いられていた。
日本の路面標示
287
石灰水
日本の路面標示
289
綾の物語は、初雪と桜が会う1年前の話である。その頃の初雪は衣食住に困っており、アキラという少年に雇われて不良たちへの復讐をおこなったり、学園の剣道場で野宿したりしていた。野宿姿を当時の生徒会長である綾に見つかり、彼女の紹介で初雪はカフェに住み込みで働くようになる。2人が親密になっていく中、初雪は綾とアキラが姉弟であることを知る。 バレンタイン祭という白咲学園の文化祭が始まる数日前。ファントムと名乗る人物から学園に脅迫状が届く。初雪はその内容から、差出人であるファントムはアキラだと考える。バレンタイン祭当日にはファントムを名乗る不審者たちが現れ、学園内で暴動を起こす。ファントムを探す初雪は、剣道場でアキラを見つける。初雪はアキラから、本当に憎いのは不良たちではなく、姉である綾だと告げられる。 綾と恋仲になった初雪は、彼女に自分の身の上話をする。綾に受け入れられて安堵した初雪は、後にアキラの正体を知る。アキラはすでに死んでおり、初雪が出会ったアキラは綾が反魂香を用いて呼び出した幽霊だった。初雪は剣で綾と戦い、綾に取り憑くアキラを消滅させる。しかし、アキラの消滅と共に、綾はアキラが取り憑いていた期間の記憶を失い、初雪のことを忘れてしまう。白咲学園の卒業式当日、初雪は自分のことを忘れてしまった綾が卒業を迎える姿を影から見届ける。
はつゆきさくら
290
1年前
はつゆきさくら
292
ミケーネ文化の崩壊
暗黒時代(古代ギリシア)
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模型というカテゴリにおいて食品サンプルと、その他の模型ではその意義に大きな違いが見られる。食品サンプルは拡大や縮小の必要性が無く、等倍であることが求められる。また、生物や人体あるいは化石の模型は対象に忠実であることを目指し、本物に限りなく近付けることが求められるのに対して食品サンプルは提供される料理の概要や組合せ、個々のサイズといった情報が求められるため、厳密には似ているだけで良く、「同一のもの」を目指す必要が無い。そのため、時には食欲を増進させるためのデフォルメや、その店の料理の特徴を強調した表現なども用いられる。 また、精密模型に比べて再現度を重要視しない背景には、食品サンプル市場に出来上がっている「相場は実物の10倍」というコストの問題もある。
食品サンプル
295
等倍
食品サンプル
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1889年10月にバカロレアを取得したプルーストはパリ大学で学ぶことになるが、その前にオルレアンで1年間の兵役に就いた。当時フランスには自発的に志願すれば3年間の兵役が1年に短縮される恩典制度があり、プルーストの一家はこれを利用したのである。当時フランスの軍人(特に将校)は社交界にも出入りできる存在であった。プルーストは厳しい訓練を喘息のために(あるいは父親が手を回したためか)免れたこともあって優雅な軍人生活を送り、このためにプルーストはフランスの作家の中でもとりわけ軍隊に友好的な文学者となった。 軍隊除隊後、1890年11月にパリ大学に入学したプルーストはパリ大学法学部に籍を置き、その後自由政治学院、文学部にも通い、1895年までに法学と哲学と文学の学士号を取得している。1892年には、ジャック・ビゼー、ダニエル・アレヴィ、ロベール・ドレフュス、フェルナン・グレーグらと同人雑誌『饗宴』を創刊し、書評や習作、短篇を発表した。『饗宴』には、アンリ・バルビュス、レオン・ブルム、ガストン・アルマン・ド・カイヤヴェ(アルマン・カイヤヴェ夫人の息子)も寄稿していた。
マルセル・プルースト
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文学
マルセル・プルースト
300
生体を機関に例えると、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組立て工具に相当する。 酵素の特徴である作用する物質(基質)をえり好みする性質(基質特異性)と目的の反応だけを進行させる性質(反応選択性)などによって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせるのである。 古来から人類は発酵という形で酵素を利用してきた。 今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、化学工業製品の製造や日用品の機能向上、医療など広い分野に応用されている。 医療では消化酵素を消化酵素剤として利用したり、疾患により増減する酵素量を検査することで診断に利用されている。 またほとんどの医薬品は酵素作用を調節することで機能しているなど、酵素は医療に深くかかわっている。
酵素